団子坂の菊見の日の「三四郎の小川」を探したトキ:「宇太郎」文学散歩(57)
- 2022/11/24
- 00:15


よし子は余念なく眺めている。広田先生と野々宮はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違うとか何とかいう所で、三四郎は、ほかの見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にいる。見物は概してがいして町家のものである。教育のありそうな者は極めて少い。美禰子はその間に立って、振り返った。首を延ばして、野々宮のいる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄から出して、菊の根を指しながら、何か熱心に説明している。美禰子はまた向をむいた。見物に押されて、さっさと出口の方へ行く。三四郎は群集を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子の後を追って行った。
漸くの事で、美禰子の傍迄来て、
「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄に手を突いて、心持首を戻して、三四郎を見た。何とも云わない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧を指した男が、瓢箪を持って、滝壺の側にかがんでいる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆んど気が付かなかった。
「どうかしましたか」と思わず云った。美禰子はまだ何とも答えない。黒い目をさも物憂そうに三四郎の額の上に据えた。その時三四郎は美禰子の二重瞼に不可思議なある意味を認めた。その意味のうちには、霊の疲れがある。肉の弛みがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美禰子の答を予期しつつある今の場合を忘れて、この眸とこの瞼の間にすべてを遺却した。すると、美禰子は云った。
「もう出ましょう」
眸と瞼の距離が次第に近づくように見えた。近づくに従って三四郎の心には女の為に出なければ済まない気が萌して来た。それが頂点に達した頃、女は首を投げるように向うをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐ後からついて出た。
二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
女は人込の中を谷中の方へ歩き出した。三四郎も無論一所に歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り路とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
三四郎は往来のまん中で扶なき苦痛を感じた。立って考えていた。
「何処か静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
谷中と千駄木が谷で出逢うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何遍この小川の向側を歩いて、何遍こっち側を歩いたか善く覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」
二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。
三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急にしゃべり出した。
「どうです、具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢いた所為でしょう。あの人形を見ている連中のうちにはずいぶん下等なのがいたようだから――何か失礼でもしましたか」
女は黙っている。やがて川の流れから目を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはっきりと張りがあった。三四郎はその眼付で半ば安心した。
「有難う。大分好くなりました」と云う。
「休みましょうか」
「ええ」
「もう少し歩けますか」
「ええ」
「歩ければ、もう少し御歩きなさい。ここは汚ない。あすこ迄行くと、丁度休むに好い場所があるから」
「ええ」
一丁ばかり来た。また橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大股に歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の眼には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽く見えた。この女は素直な足を真直に前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。従って無暗にこっちから手を貸す訳には行かない。
向うに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄って見ると、唐辛子を干したのであった。女はこの赤いものが、唐辛子であると見分けのつく所迄来て留まった。
「美しい事」と云いながら、草の上に腰を卸した。草は小川の縁にわずかな幅を生えて居るのみである。それすら夏の半ばのように青くはない。美禰子は派手な着物の汚れるのをまるで苦にしていない。
「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促すように云って見た。
「有難う。これで沢山」
「やっぱり心持が悪いですか」
「あんまり疲れたから」

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