まるで『瓶(カメ)』売場のような弥生土器:吉野ケ里⑦
- 2022/07/20
- 00:05
まるで~
『瓶(かめ)』売場のようですが~(笑)
弥生土器です
売り物では
ありません😅
撮影:2022年5月30日
撮影場所は…
佐賀県
吉野ケ里遺跡の展示室
吉野ケ里遺跡公園の地図
ちなみに
吉野ケ里遺跡公園の広さは…
吉野ケ里歴史公園
117ヘクタール

皇居
115ヘクタール(東京ドーム約25個分)

吉野ケ里遺跡公園のほうが
東京千代田区の皇居より広い
デカい弥生土器が
並んでいたのは…🏺🏺🏺🏺
南内郭のそばの
👈展示室
撮影:2022年5月30日
展示室は…
南内郭の入口にある…『櫓』のそばにある
展示室の中に入ると…👀…
所せまし~と
デカイ瓶が並んでいた😲
縄文時代の末に朝鮮半島から水田耕作が北部九州に伝わり、紀元前数世紀には西日本で水稲耕作を基礎とする社会が成立し、ついで東北地方にまで農耕が広まった。大陸で紀元前三世紀に秦・漢という強力な統一国家が生まれた影響もあって、鉄器・青銅器など金属器の使用が伝えられ、農耕を基盤とした弥生時代社会が展開した。紀元前数世紀から紀元三世紀までの弥生時代は、前期・中期・後期に区分される。弥生時代には、農耕による富の蓄積とともに共同体に階層差が生まれ、祭祀を主宰する支配者が生まれるとともに、共同体間の戦争も展開するようになった。縄文土器に代わり、より薄く堅く、文様なしで赤色の弥生土器が使用された。
弥生時代…
約2千年前の土器とはいえ~
こんなにアルと…😅
撮影:2022年5月30日
驚いたのは…
ちゃんと…ホンモノで修復されているってこと
撮影:2022年5月30日
割れ目が…
キチンと
合ってる😲
撮影:2022年5月30日
見てっ👀❕
下の方まで
ピタリっ合っている
撮影:2022年5月30日
発掘された土器って
👆コンナノを想像してた
撮影:2022年5月30日
ホンモノは
少しだけ
あとは
レプリカで修復
ところがっ😲
ココにある
弥生土器は…
撮影:2022年5月30日
修復部分が
白い…とわかりやすい
撮影:2022年5月30日
ホンモノのほうが多い…😲
トイウカ
ほとんど…ホンモノ😲
。。。。。
この土器が
何モノかというと…
甕棺=甕形の素焼きの土器を使った棺(ひつぎ)
発掘調査現場でもらったプリントより引用
発掘調査現場でもらったプリントより引用
こんなふーに
キチンと埋葬されていたから
中の『モノ』も保存状態がよかったのね~
甕棺が…
その場でつぶれている状態で発掘されるから
ほとんどの部分が
そのへんでみつかるって言われた
ラッキーな場所だったんだねーー吉野ケ里はーー
工事されたり~
流されたり~
移動しなかった…ってこと
発掘調査現場でもらったプリントより引用
2千年前のコトが…
ココマデワカルって
スゴイよねーー
展示室の説明 撮影:2022年5月30日
展示室の展示はコチラ👇
撮影:2022年5月30日
展示室のホンモノ
甕棺は…本物で
お骨は…レプリカ
撮影:2022年5月30日
展示室のパンフレットより引用
予想以上の
出土品だったので~
~

思わず
受付の男性に言いました
この甕棺…
ほとんどっホンモノなんですねーー😲
すると…
見学者は
私ひとりだったので
いろいろ説明をしてくださいました
ラッキーでしたねーー

。。。。。
自分では
知識不足で見逃していたのですが…
撮影:2022年5月30日
弥生土器の甕棺
撮影:2022年5月30日
この土器の…薄さ…
撮影:2022年5月30日
専門家から見ても…
ものすご~~く
薄い~ようです
撮影:2022年5月30日
たしかに…
陶芸とか粘土って
薄く作るの…ムズガシイ
薄くすると…
グチャっと壊れてしまう
だから…
壊れない程度に
破けない程度に
厚くする
撮影:2022年5月30日
土は…そのへんの『土』ですって
特殊な『土』を使っているワケじゃない
撮影:2022年5月30日
出土した弥生土器と同じモノを作ってほしい
陶芸家に依頼したそうです
現代の技術じゃ作れないって言われたって
小さいのならドーニカなるけど
こんなに大きいのはムリだって
陶芸の本場の…佐賀での話だよ❕😲
有田焼~だの
伊万里~だの
唐津焼~だの
陶芸の本場で
そう言われたって聞いて…驚いた
ナンナンダロー
古代人の
能力って😲
「虹色佐賀」パンフレットより引用
ブログを書きながら…
陶芸の本場の佐賀で
全然『焼き物』を見てこなかったコトに
気づいた😢
伊万里~とか
唐津焼とか
見たかったな~😢
武雄焼きもステキね~~

また…行かなくっちゃ…佐賀(笑)
⋯⋯参考資料⋯⋯
『日本古代中世史』
発行:2011年3月20日 第1刷
2013年10月20日 第3刷
編著者:五味文彦・佐藤信
発行所:放送大学教育振興会
第2章 列島の原始から倭国へ
1 旧石器時代から縄文時代へ
人類は、約四百万年前の第三紀の末に誕生四し、第四紀に類人から原人、旧人、新人へと進化した。
(中略)
金属器時代以前の石器時代は、打製石器を用いた更新世の旧石器時代と、磨製石器や土器を用いる完新世の新石器時代とに区分される。
(中略)
約1万年前に気候が温暖化すると、海面上昇により日本列島が形成され、動植物相が変化して縄文時代(約1万2千年前~約2千数百年まえ)が始まる。縄文文化では、中・小型獣の狩猟用の弓矢や食料煮炊き用の土器が使用され、磨製石器が出現した。
(中略)
数名の一世帯が竪穴住居に住み、数世帯で住居を営んだ。集落は台地上に立地し、中央の広場を竪穴住居群が円形に取り囲み、水場、墓地、貯蔵穴やゴミ捨て場が付属した。集会所、作業場と推測される大規模な竪穴住居が存在することもあり、その姿は、三内丸山遺跡(青森市)などに見られる。
2 弥生時代と「邪馬台国」
縄文時代の末に朝鮮半島から水田耕作が北部九州に伝わり、紀元前数世紀には西日本で水稲耕作を基礎とする社会が成立し、ついで東北地方にまで農耕が広まった。大陸で紀元前三世紀に秦・漢という強力な統一国家が生まれた影響もあって、鉄器・青銅器など金属器の使用が伝えられ、農耕を基盤とした弥生時代社会が展開した。紀元前数世紀から紀元三世紀までの弥生時代は、前期・中期・後期に区分される。弥生時代には、農耕による富の蓄積とともに共同体に階層差が生まれ、祭祀を主宰する支配者が生まれるとともに、共同体間の戦争も展開するようになった。縄文土器に代わり、より薄く堅く、文様なしで赤色の弥生土器が使用された。
(中略)
弥生時代には、竪穴住居数棟~数十棟からなる定住的な集落が営まれ、農耕獲物を納める高床倉庫も建てられた。戦いに備えて、濠に囲まれた環濠集落や山上に立地する高地性集落も出現した。集落近くには共同墓地が営まれ、甕棺や石棺・木棺による埋葬が行われたが、次第に有力な副葬品を持つ埋葬が生まれ、首長のための墓として墳丘墓(方形周溝墓)が発達していった。
弥生時代は…紀元前数世紀~紀元3世紀まで
ってことねーー🤔ーー
=つづく=
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