この日は
夏目漱石・文学散歩でした
雑司ヶ谷で
夏目漱石のお墓参りをして
早稲田の
夏目漱石誕生の地…に行きました
夏目漱石誕生の地 撮影:2021年10月23日
この日の東京文学散歩コース
雑司ヶ谷駅を出発して…
雑司ヶ谷霊園の
夏目漱石のお墓参りをして
肥後細川庭園=永青文庫
早稲田大学
経由で…
早稲田の
夏目漱石誕生の地…に行きました
。。。。。
夏目漱石の誕生の地は…
早稲田駅
早稲田駅を地上に出て…道を渡ったのところに…
夏目漱石の誕生の地はありました
夏目坂通り 撮影:2021年10月23日
早稲田駅の入口付近から
撮影~📷~しています
夏目坂通り 撮影:2021年10月23日
道を渡ると
夏目坂通り…です
ワクワクしながら
夏目坂を登りました~

~
夏目坂 撮影:2021年10月23日
夏目漱石~誕生の地は
どこダロー
夏目坂 撮影:2021年10月23日
今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。
(中略)
この町は江戸といった昔には、たぶん存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかにわからないが、なんでも私の父がこしらえたものに相違ないのである。
私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口からきいたのか、またはほかのものから教わったのか、なにしろ今でもまだ私の耳に残っている。
(中略)
父はまたそのうえに自宅の前から南に行く時にぜひとも登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にして、これは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこのあいだ、ある人が来て、地図でこのへんの名前を調べたら、夏目坂というのがあったと言って話したから、ことによると父のつけた名が今でも役に立っているのかもしれない。
夏目坂…という坂の名前は
夏目漱石のお父さんがつけた
名前だったのですねーー
夏目坂
しかし…
夏目坂を…かなり…登っても
夏目漱石誕生の地は…現れません

父はまたそのうえに自宅の前から南に行く時にぜひとも登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。
ちゃんと
👆こうーー書いてアルのにねーーー

長い坂を登る…前❕…に
自宅はアルのです(笑)
引き返しました~


夏目漱石誕生の地○ 撮影:2021年10月23日
早稲田駅の前付近から撮影
ナンノコトハナイ
夏目漱石誕生の地は…
早稲田駅の…すぐ前❕…にありました
夏目漱石誕生の地□ 撮影:2021年10月23日
私が早稲田に帰ってきたのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。
(中略)
早稲田に移ってから、私は、またその門前を通ってみた。表からのぞくと、なんだかもとと変わらないような気もしたが、門には思いもよらない下宿屋の看板がかかっていた。私は昔の早稲田たんぼが見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来の茶畠と竹藪を一目ながめたかった。しかしその痕跡はどこにも発見することができなかった。たぶんこのへんだろうと推測した私の見当は当たっているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。
私は茫然と佇立した。なぜ私の家だけが過去の残骸のごとくに存在しているのだろう。私の心のうちで、早くそれがくずれてしまえばいいのにと思った。
「時」は力であった。去年私が高田のほうへ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家はきれいに取りこわされて、そのあとに新しい下宿屋が建てられつつあった。
『硝子戸の中』夏目漱石より引用
二度目に…漱石が「私の家」を見た時…
漱石の家は取りこわされ
その跡地に…下宿屋…が建てられていたようです
実は・・・
私は・・・
この地に立って
私は・・・
まさに❕
私は茫然と佇立した。
初めて訪れた場所だったのですが・・・
漱石と自分との
不思議な
因縁を感じたのでした

驚きましたねーーーー😲
サスガに…ブログには書けない…<(_ _)>
夏目漱石誕生の地 撮影:2021年10月23日
夏目漱石誕生の地…に関するモノは
コレダケ👆
でした
夏目漱石誕生の地 撮影:2021年10月23日
漱石は・・・
この地で生まれた…という説明
夏目漱石誕生の地 撮影:2021年10月23日
漱石のお父さんがつけた…町名…
ちゃんと残っていますねーーー
夏目漱石誕生の地 撮影:2021年10月23日
この地に関する…『硝子戸の中』の引用部分
私の家はきれいに取りこわされて、そのあとに新しい下宿屋が建てられつつあった。そのそばには質屋もできていた。質屋の前にまばらな囲いをして、その中に庭木が少し植えてあった。
(中略)
どこか見覚えがあるような心持ちを私に起こさせた。昔「影参差松三本の月夜かな」とうたったのは、あるいはこの松のことではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
夏目漱石誕生の地 撮影:2021年10月23日
『硝子戸の中』夏目漱石より引用部分
。。。。。
この日の
前の週に・・・
「三四郎池」に行きたくて
東京大学に行ったら
警備がキビシクテ
中に入れなかった
ところが
東京大学付近の地図に
永青文庫をみつけた
それで
永青文庫…肥後細川庭園に行きたくなった
永青文庫の最寄り駅が
雑司ヶ谷駅なので
雑司ヶ谷霊園の
夏目漱石のお墓参りをすることにした
で…
永青文庫…肥後細川庭園に行くと
雑司ヶ谷駅も
早稲田駅も
同じような距離なので
早稲田駅付近の
夏目漱石誕生の地にも行こうと思いついた
なぜか~

~
絶妙に
つながっている(笑)
まさに
夏目漱石
文学散歩
『三四郎』に…次のような場面がある
三四郎が学校の講義を物足りなく思い、与次郎に相談すると・・・
与次郎は
「電車に乗れ」とアドバイスするのである
それから当分の間三四郎は毎日が学校に通って、律義に講義を聞いた。必修科目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻科目にまるで縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。しかし、大抵は二度か三度で已めて仕舞った。一ヵ月と続いたのは少しも無かった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる。三四郎は絶えず一種の圧迫を感じていた。しかるに物足りない。三四郎は楽まなくなった。
或日佐々木与次郎に逢ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十返食ったら物足りるようになるか考えて見ろ」といきなり警句でもって三四郎を打しつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたら善かろう」と相談をかけた。
三四郎の相談に
与次郎は次のようにアドバイスするのであった
「電車に乗るがいい」
(中略)
「電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちには自ずから物足りるようになるさ」
(中略)
「なぜって、そう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外に出て風を入れるさ。その上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつ尤も軽便だ」
『三四郎』夏目漱石より引用
。。。。。
この場面は
まさに
今の私への~アドバイス~でした(笑)
久しぶりに電車に乗って__🚋🚋🚋__
東京大学に出かけてみたことから
体の中に
心の中に
風が…入ってきたのです
『三四郎』は・・・
若いころ読んだときは
そんなに~印象的な作品ではありませんでした
でも・・・
今・・・
コロナ禍の今・・・読むと
絶妙に琴線に触れる…文章に出会うのです
=つづく=
――2021年東京文学散歩ブログ――
2021年東京文学散歩⑦:早稲田の夏目漱石誕生の地に行ってみた
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